アラフィフのほっこりブログ

好きな場所、日常の小さな気付きなど、つづってみたブログ

『鬼滅の刃 無限列車編』観てきました。(一部ネタバレ含みます)

どの場面も目が離せなかった。

最高に格好良くて、面白くて、笑いがあって、涙あり、悲しくて虚しくて、儚くて、それでも強くて前を向いて、命がけで立ち向かって行く。とてつもなく清く、美しく、とんでもなく実直で、とにかく心に深くグォーッと刺さった。染みた。何だこの感覚。

主人公の炭治郎の清い心、家族や仲間との絆、どこまでも強く明るく、筋を通し貫抜いた炎柱の煉獄さんの戦う姿、全てが力強く、熱く、心に響いた。

 

今回無限列車を乗っ取った鬼の魘夢は、今までの鬼とは違って顔も声も比較的穏やかな鬼だった。

だが、血鬼術は眠らせていい夢を見せている間に人の「精神の核」を突き、心を破壊してしまうという、戦い方だった。

炎柱の煉獄さん、炭治郎、伊之助、善逸、それぞれの夢の中でいい夢を見せられつつ、心地良くなる。そこで「精神の核」なるものを破壊させられそうになるのだが、これは夢の世界だと気づき、元の世界へ戻ろうとする。なかなか術を破れないのだが、夢の中で自分を断ち切る事で、元の世界に戻れることが分かり、そこから騒然な闘いが続く。

 

今回の映画ではなかったが、いつも鬼を倒したあとには、鬼の過去である人間だった頃の回想シーンがある。今回の魘夢に関しては、無かったが、鬼を倒した後の、痛快な気分だけでは終われない。人間であったときの悲しみや苦しみ悼みなどが、憎悪となって、強い鬼へと変わり果てている。鬼にも辛い過去があり、鬼は醜いいきものではなく、儚い生き物だと考えさせられる。

 

今、この「鬼滅の刃」を見ている子どもたちが、どこまで意味を理解しているの分からないが、強い精神を持って生きていく力や、人を、友達を、家族を大切にすること、絆など、全てが学ぶ事ができると思った。強く、熱く、清くあれと。

これは、私の感想だが。

 

魘夢を倒した後に出てくる、更に強豪な鬼の猗窩座もまた、鬼ではあるが、戦い方は素手で人間である煉獄杏次郎と対等であったところがかっこよかった。

 

炎柱の煉獄さんが幼い頃に、母からの教えられたこと、弱き人を助けることは強く生まれた者の責務だと。人より秀でたその強い体を、人の為に使いなさいと。教える。

その母の言葉通り、人のために人を守り抜き、自分の責務を全うした。美しかった。

亡くなった母が、立派に責務を果たせましたよと微笑む。そこでまた涙を流す。

 

煉獄さんと猗窩座の死闘の末、夜明け前になり、鬼の猗窩座が闇に逃げて行く、炭治郎が、逃げるなと叫ぶ。お前は負けだ。煉獄さんが勝ったんだと。陽の光に当たると消滅してしまう鬼と戦うには、人間には不利な夜の時間に戦わなければならない。鬼はそんな事は考えたことも無いだろう。逃げ行く鬼に対し、まるで子どもが喧嘩で負けて悔しさを泣き叫ぶ。真の心の叫びだった。カッコつけるとか、恥ずかしいとかそんな感情は一切無く、泣いて泣いて泣き叫んでいた。日本では男はそう簡単に泣くもんじゃないと教えられ、それが美徳とされてきた。

それがこの映画では、そんな事とは全く無縁。素直に悲しみの感情を露に出していた。泣いて泣いて泣いてみんなが号泣していた。

 

なんだろう。心がキレイ。主人公の炭治郎の心の中は、映画の中の夢のシーンでも出てくるのだが、真っ青な空、白い雲、どこまでもどこまでも澄み切っていて、晴れ渡り、一点の曇りもなかった。とてつもなくキレイでとてつもなく優しくて、こちらの心が洗われる様だった。

 

観終わえてから、しばらく涙がとまらなかった。

そして、この闘いはまだまだ続くんだと、この映画はほんの一部に過ぎないんだと思った。

このキャラクターたちがもっともっと強くなって、柱になって、更に強力な鬼や、最強なる鬼である鬼舞辻無惨と闘うまでは。

楽しみだ。シンプルに楽しみだ。

作者の吾峠呼世晴さんはどんな思いでこの作品を作りあげたのだろう。

私はマンガで読んでいたのではなく、YouTubeで無料で配信されてから、少しずつハマっていった。

TVのロードショーで放映を2週観てから、映画館に観に行った。その上での素直な感想です。

マンガを読み進めて映画を観るのとは、また違った感想かもしれない。

映画を観てイメージと違ってたり、終わりが曖昧だったり、妙に考えさせられてりして、スッキリしなかったりするものもあるが、

久しぶりに映画を観て、全てがよかった。

ただの勧善懲悪だけではない奥深いものがあった。ほんとに感動した。次回作も期待している。